司会(小林育栄):
新屋英子さんのひとり芝居『身世打鈴』がいよいよ上演2000回記念公演を迎えるわけですが、今日は、新屋英子さんと記念公演の副実行委員長の松元憲行さんに、いろいろお話をお伺いしたいと思います。進行は、大阪市民劇団「かけはし座」で新屋さんから指導を頂き、劇団野火の会公演、「星砂―オキナワ」で新屋さんの相手役を務めさせて頂いている私、小林育栄が担当させていただきますので、どうぞよろしくお願いします。ではさっそく、新屋さんにお伺いしたいのですが、「身世打鈴」は遥か遠く32年も以前に初演され、以来今日まで全国各地や海外で2000回も上演されてきたワケですが、最初はどういうキッカケから始まったのでしょうか?

新屋英子(しんやえいこ)
ひとり芝居の先駆者、代表作「身世打鈴」が上演2000回を迎えた。「チョゴリの被爆者」「ヒミコ伝説」など、やがてひとり芝居3000回に達する。映画やテレビでも活躍中で、最近では、映画「学校」「ぼくんち」「ジョゼと虎と魚たち」「お父さんのバックドロップ」等に出演。「荷車の歌」で大阪府民劇場賞、「藤戸」で大阪府、大阪市文化祭賞受賞。著書に「身世打鈴」・「演じつづけて」、最新刊に「女優・新屋英子」

●1973年4月29日、名作「身世打鈴」誕生。
新屋英子(以下新屋):
当時、新劇の女優達から自分達で新しい芝居を作ろうという気運が生まれてきて、1973年4月29日と30日の2日間、30人入ったら一杯になる北区梅ヶ枝町の「辻」という喫茶店でやった幾つかのお芝居のひとつが『身世打鈴』やったんです。「身世打鈴〜在日朝鮮人女性の半生」という本をもとに、私が脚色したんですが、本を読み終えた後、体中の震えがとまりませんでした。私はそれから、日本が韓国・朝鮮を植民地にしてからの年表を作って、それを主人公の半生に重ね合わせて、さらに在日のオモニやいろんな人に聞き取りをして、私も懸命に勉強しながら舞台を練り上げたんです。
松元憲行(以下松元):
初演はたしかいまよりうんと短い劇だったとか・・。
新屋:
最初27〜8分でしたね。それでも皆さんが大変喜んでくださったんですけど、私は胸や心臓も張り裂けそうになるし、終わるとごはんも喉に通らないぐらいで、立ち上がることもできないほど疲れきって、終わった翌日はぎっくり腰にもなるほどの緊張感でしたね。身世打鈴はそれから5年間は断り続けていたんです。こんなしんどい芝居はもうできへんと思っていたんです。ところが女性解放運動の闘士やった関久子さんというおばあちゃんに、「日本と韓国・朝鮮の歴史がよくわかる、素晴らしい劇や。」「ぜひともまたやってほしい。」と熱心に公演を頼まれたんです。もうしないつもりでいたお芝居でしたが、関さんの情熱に動かされて5年ぶりに再演してから、それをキッカケに、全国各地から呼ばれるようになったのです。行っていない県はありません。中国の北京や韓国の木浦でもおこないました。
司会:
新屋さんのことを在日の役者さんだと思っておられる方も多いですよね。
新屋英子:
私は大阪天満で生まれました。幼い時に近所に強制的に連れてこられていた朝鮮人の方がたくさん住んでいました。親からは、「あそこに近寄ったらあかんで」と言われてたんです。友だちもいて、かわいそうやと思いながら、親に逆らえなかった。私も差別してたんですよね。ところが、当時はなんで日本にいるのか?ということがわからなかったんです。ところがある日、、その一冊の本を読んだとたん、目から鱗が落ちる気分でした。だから、日本人としてこのお芝居をする意味は大きいと思っていますし、コリアンの役者さんと思われるのも光栄なことです。もともと、中国や韓国・朝鮮から日本はたくさんのことを学びながらやってきた。我々の先祖とも敬う歴史も持ちながら、現実社会のなかで差別をしている、実に不思議なことです。
松元:
たしかに、「身世打鈴」は日本と朝鮮半島の関係がよくわかるお芝居になっていますね。同時に、観ていて大変、楽しく、面白い舞台になっていて、観客は何度も大笑いしたり、泣いたり、怒りがこみあげてきたり、激しく魂が揺さぶられる、そこが素晴らしいですね。

松元憲行(まつもとのりゆき)
新屋英子後援会特別顧問、(財)大阪府トラック協会健康保険組合理事、近畿交通共済理事、トーヨーグループ代表、鞄圏z運輸代表取締役。
交通バリアフリー社会到来へ福祉タクシー事業等、福祉交通へ積極的に取り組む。大阪府福祉タクシー連絡協議会営業・広報委員、ケアタクシー対策委員を歴任。2000年に近鉄小劇場で企業としてはじめて「身世打鈴」上演を主催、以降文化、芸術活動に力を注ぐ。

●永遠の人間ドラマとして!
新屋:
私は人間ドラマとして、「身世打鈴」を観ていただきたいと思ってますから、そう言ってくださると嬉しいですね。最初本読んだ時「これは、すごいドラマや!」と感動した熱い思いが芝居のモチーフになっていますから。劇、お芝居も激しい人間の葛藤なんです。まさに魂と魂のぶつかり合いです。このような激しい人間の葛藤なんです。でもその人間の葛藤を深く厳しく描く為にも、日朝・日韓のむちゃくちゃな歴史、日本の軍国主義によって植民地にされていったという歴史、たくさんの人々が、土地を奪われ日本に来ざるを得なかった歴史をちゃんと見つめることからはじめなければなりません。
司会:
松元さんにお話をお伺いしたいのですが、ちょうど5年前に、松元さんが実行委員長をされて、近鉄小劇場で『身世打鈴』を上演されたことは記憶に新しいのですが、近鉄小劇場といえば私達演劇人にとり憧れの舞台で、企業家がプロデュースして公演を成功させたことは、正直驚きでした。
新屋:
私もおどきました!(笑)
司会:
今回の2000回記念公演も、たくさんの企業の協賛や参加をいただいていますが、企業家の立場で『身世打鈴』を上演されたキッカケはなんなのでしょうか?
●「やってよかった!」と感激の涙が溢れて・・。
松元:
私はもともと差別者で、在日コリアンに対しても、差別をしていた人間です。運送業を営んでいまして、たまたま、事故や商売上のことで、在日の方ともめる機会が続いたこともあって、いっぺんに嫌いになってしまったのです。しかし、次第に差別意識をもつ自分に対し「こんなことでええのかなあ。」と思うようになっていたことも事実でした。そんな中、ある方から、日本人でありながら芝居を通じて在日コリアンの差別の問題を訴えている新屋さんがいることを聞いたんです。たまたま、仕事から帰ってテレビをつけたら、新屋さんの芝居が放送されていたんです。実はそれを涙を流しながら見入ってしまって、いつか新屋さんの芝居をやってみたいという思いが募っていったのです。
でも、正直、「身世打鈴」の実行委員会を立ち上げる時には、社内からいろんな意見が出たのも事実です。今まで私が触れようとしなかった部分ですから仕方ありませんが、私も内心どうしようか迷ったのですが、「エイヤー!」とやってしまった気がします。でも、当日、満杯になった近鉄小劇場を見たとき、ほんとに、「やってよかった。」と感激の涙が溢れたのも事実です。
それ以来、私の商売が明るくなりました。この5年間で随分私自身が新屋さんとの出会いで変わることができたと思っています。
新屋:
そういうお話をお聞きすると、私も勇気づけられますね。もっともっと頑張らねばと思います。
●社長である私が変われば、企業が変わる!
司会
今日本社会の中では多くの差別が存在してると思います。在日コリアンの子供達をとってみても、就職差別が企業の中であって、たまに表面化したりしていますが、松元さんは、今後の企業のあり方についていかにお考えでしょうか?
松元
私の場合、企業を変える、世の中を変えるという前に、「社長である私が変われば、企業は変わる」という意識がつよかったですね。今だから言える話なのですが、以前は、在日コリアンの方が面接にきても、なんやかやと言いながら結局採用しないようにしていました。運送事業の場合、免許書を確認するだけで国籍がすぐわかってしまうのです。でも、いつしか「これでは、いかんなあ。」と思うようになってきたのです。今ではたくさんの在日コリアンの人も働いています。
それから、企業の社会的責任ということで、例えば、東陽運輸でも環境に負荷をかけない企業をめざすということで、ISO14001を取得しています。またそんなことをされている企業も多いのではないかと思いますが、人権についてはどうなのか?やはり日本社会に存在する企業として、社会的な責任を、人権の分野でも果たしていかなければならない時にきていると考えます。今や、24時間あれば、地球上何処へでもいけない国はないのですよ。そんなグローバルな時代になりながら、差別をしていたら企業にとっても損。マイナスになる、そう考えています。もう既に、地域では足元の国際化が進んでいて、在日コリアンだけでなく多くの外国人が共に生活をしているんです。有能な人材を確保するのに、差別は障害になります。それこそ、企業にとり大きな損害ですよ。そして、更に付け加えると、差別はいけないとお題目のように唱えていても、これまた何にもならないと思います。企業として就職差別や様々な差別をなくす運動に身を置いてこそ、少しその役割が果たせたことになるのではないでしょうか。

小林育栄(こばやしいくえ)
大阪市民劇団「かけはし座」の数多い舞台で、感性豊かな存在感溢れる女優として注目を浴びる。新屋英子に認められ二人芝居「星砂―オキナワ」に抜擢され好演。新屋英子プロデュース、ひとり芝居「学校へ行きたいねん。―ただ愛してほしいだけ」の演技で各界から称賛される。演劇ストーリー「トミおばあちゃんの手紙」で第10回ヒューマニティー大阪市長賞を受賞。

新屋
ほんとうにそのとおりだと思います。
●2000回演じ続けた情熱の源!
司会:
私はふたり芝居「星砂―オキナワ」で新屋さんの孫娘をやらせて頂いていますが、いつも感じるのは、この迸るような新屋さんの『情熱』は一体どこからきてるんだろう、ということなんです。
新屋:
さあ、どうなんでしょうか、化けるというか、芝居をつうじて違う人間になることの喜び、いろんな人間を演じられる楽しさ、その役になりきって魂が入り、無限の宇宙が拡がって、自分が生きる。その楽しさ、喜びがあるから演じつづけていくことができるんでようね。松竹映画「学校」に出演したとき、撮影のときに教室でノートに字を書いていたら、山田洋二監督が手元を覗き込んで、「この手は女優の手じゃないな。これは労働者の手だ。」と言ったことがありますが、その言葉を私は誇りに思っています。

それから、差別は絶対にいかんという、人間のあたりまえの心情。人間はみな同じ、花もいろいろなら人もさまざま、みんな大事にされなあかん、という信念。これも情熱の源でしょうか。
●いまや新屋さんは私のライバルです!
司会:
松元さんはどういうキッカケでご自分が変わっていかれたのでしょうか?
松元:
それは、とにもかくにも、新屋英子さんとの出会い。新屋さんと出会って、新屋さんを通じて多くの方と出会って学ぶようになりました。それからというもの、在日コリアンの人たちを東陽運輸に採用していく中で、在日韓国・朝鮮人の今まで見えなかったところが私自身に見えてくるようになりました。今では、『身世打鈴』2000回を迎える新屋さんの頑張りに負けないように、企業としての責任を果たしていく、そんな覚悟ですね。今や新屋さんはわたしのライバルです!(笑)
新屋英子:
企業家である松元さんから、そう言われると、「そら、受けて立たなあかん」(笑)私も「負けたくない」という思いで一杯になります。そういう励ましが私にはものすごい力になるんです。
司会:
最後に、松元さん自身も、昨年、富田林市のすばるホールで「新屋英子一座」にも特別出演され新屋さんや私と同じ舞台を踏まれましてなかなかの名演技でしたが、どのようなご感想をお持ちですか?
松元:
人生は芝居だ。と思いました。(笑)稽古から本番とまさに格闘の日々でしたね。
新屋:
演出家が言ってましたよ、「さすが企業のトップの人は違う、本腰を入れたら芝居でメシが食える」って!
松元:
まさか!(笑)いっぺん、私のプロデュースで新屋英子一座みたいなものを歌舞伎座でやりたいと思っているんですよ。
新屋:
いいですね。大阪の人と街に、夢と勇気と活力を与えるような楽しいお芝居がしたいですね。
松元:
新屋さんの愛弟子である小林さんのひとり芝居も、私のプロデュースでぜひ、実現させたいと考えています。
司会:
ヤッター!いまのお言葉、シッカリ録音していますから!(笑)
松元:
新屋さんは、「身世打鈴」の他にも、いろいろなひとり芝居を演じておられますね?
新屋:
はい、広島の朝鮮人被爆者を描いた、「チョゴリの被爆者」、元従軍慰安婦をテーマにした、「燕よ、あの人に伝えてよ」、生命力溢れる部落のおばあちゃんを主人公にした「ヒミコ伝説」などたくさんやってますけど、それらを合わせるとひとり芝居の上演が3000回になります。
松元:
それは凄いですね。新屋さんに負けないように、私もますます頑張らないと!
新屋:
私も松元さんに負けないように頑張ります。だって私たちはライバルですものね!(笑)
司会:
お二人のお話を聞かせていただいていると、なんだか夢がふくらんでくるような気がいたします。人は歳月を重ねて老いるのではない、夢を失って老いる、という意味のことを誰かが言ってますが、夢を追いつづける新屋さんと松元さんはいま青春の真っ盛りを生きておられるような気がします。今日はほんとにありがとうございました!